もう一人の孫悟空、玄奘三蔵法師2016.02.26

もう一人の孫悟空、玄奘三蔵法師

 申年が明けて、2ヶ月が過ぎました。
 皆様、いかがお過ごしですか。
 申年といえば、孫悟空。明るく強い上に、富や不老長寿を連想させるので、ドラゴンボールや西遊記の主人公としても人気者ですね。

 でも、事実は小説より奇なり。
 実物の玄奘三蔵法師( 602?〜664)は、ある意味、孫悟空よりタフな人でした。
 ちなみに「玄奘」が法名で「三蔵法師」は尊称です。

 時は7世紀初め、隋王朝が滅び、唐王朝が始まった混乱の世。
 長安の青年僧だった玄奘は、経典の矛盾に悩み、仏教の原典をインドで確かめようと、皇帝の鎖国令を破って密出国します。
 玄奘が選んだのはシルクロードの道。広い唐の国内を役人の目を逃れて夜に移動し、隊商にまぎれて国境を越え、灼熱のタクラマカン砂漠、雪と氷のテンシャン山脈、中東のサマルカンドを経て、仏教学の聖地ナーランダー大学※1に着きました。

 玄奘はこの大学で仏教や医学、薬学、工学などを学び、副学長まで務めたようですが、数年後に帰国を決意。帰りはインド各地の仏跡を巡って写経を続け、出国から16年間で657部もの教典を写して、長安に持ち帰ります。その後、62歳で亡くなるまでの20年間は、皇帝の庇護のもと、ひたすら翻訳作業に没頭しました。

 ところで、皇帝が密出国の罪を赦したのは、実は玄奘の語学力や周辺諸国の情報を侵略戦争に利用するためでした。しかし玄奘は「還俗して側近になれ」という皇帝の命令を断り、替わりに旅の報告書「大唐西域記」※2を弟子と制作して、逆に皇帝から全面支援を引き出しています。

 16年間の大冒険だけでもすごいのに、前向きな知恵と胆力で、恐ろしい最高権力者を2度もやりこめた玄奘。圧政に苦しむ中国の庶民たちは、その噂を聞いて、どんなにスカッとしたことでしょう。
 玄奘人気は抜群で、彼が亡くなったあと何世紀にもわたって話を脚色されたり、各地の伝説と混じったりして、さまざまな逸話が生まれました。
 それを千年後に取りまとめたのが「西遊記」です。

 さて、話が戻りますが、一介の青年僧の玄奘が大学で勉強できたのは、火焔山に近いオアシス都市の王様が玄奘を高く評価して、大きな支援をしてくれたおかげ。しかし、その10年後、その豊かな王国は唐に攻め滅ぼされ、再会の約束は果たせなくなりました。玄奘はその故国を報告書のスタートにしています。

 そんな二人の約束を、後世の中国の人たちは、物語の中で叶えてくれました。
 「火焔山の牛魔王」のようなあの王様は、孫悟空と義兄弟の契りを結び、力いっぱい競い合い、最後は魔法のうちわ「芭蕉扇」で灼熱の火焔山の炎を消して、今も三蔵法師のために西域取経への道を開いてくれています。

※1 世界最古の大学の一つ。設立は427年頃。仏教学、哲学、論理学、言語学、天文学、数学、医学など計12の学部をもち、教授は2千人、学生1万人余り。全盛期には900万巻の蔵書を誇った。

※2 7世紀を代表する地誌。実際に玄奘が旅した110カ国と伝聞した44カ国の報告書。概要、仏教遺跡・気候・風土・習俗・言語・地理・物産・伝説など広範囲にわたる。

コラムニスト 鈴木 百合子